花束書房では、『闘う女たち、歴史になる―世界を揺さぶった女性独立運動家14人の肖像―』(絵:ユン・ソクナム、著:キム・イギョン)の日本語版を今夏、刊行予定です(邦題未定)。
本の主人公は、日本の植民地支配に抵抗し、独立運動で闘った14人の女性たち。当連載では、本の魅力をより味わってもらうための関連コラムを掲載します(第1回目はこちら /第2回目はこちら)。いまの社会運動やフェミニズムにもつながる歴史を、帝国日本が女性たちを抑圧した歴史を、ぜひ知ってください。
今回は、日本版の翻訳者のおひとりである宋連玉さんに、本書に登場する金マリアのいとこで、1930年代に上海の映画界で大スターになった金焔(キム・ヨム)についてご寄稿いただきました。中国のトップスターながら、金焔の伝記では金マリアが登場しなかったといいます。そのわけは――? 上海臨時政府(3.1運動により成立した大韓民国の臨時政府)との関わり、帝国日本の支配、朝鮮半島の南北分断、反共を掲げた韓国政治……と、近現代史を背景にした濃密なコラムです。
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金焔― 上海電影皇帝と呼ばれた朝鮮人
金焔という1930年代に上海の映画界でトップスターになった朝鮮人がいる。当時の上海は中国を代表する大都会なので、中国におけるトップスターと言っても過言ではない。私がその存在を知ったのは、 少年の眼で上海臨時政府にまつわる人びとをユニークに描写した書物『永遠なる臨時政府の少年』の翻訳に携わったからである。ちなみに著者の金滋東(キム・ジャドン)は鄭靖和(チョン・ジョンファ)の一人息子である。金滋東によると、「眉目秀麗な金焔は1930年中国映画界の巨匠、孫瑜監督に抜擢され、映画『野草閑花』で主役を演じて人気を博した。1934年上海映画雑誌『電星』で映画皇帝を選ぶ人気投票があった。ハンサムな男優、友人にしたい俳優、人気がある俳優のすべての項目で、金焔は一位に選ばれた」とある。
韓国で刊行された金容玉著の『김마리아キムマリア』(2003年)は内外の資料を博捜し、それらをもとに評伝を完成させたものだが、そこにはマリアの従弟である金焰についての言及はない。日本以上に親族の紐帯は強く、従弟といえばきょうだい同然である。しかもマリアと姑母(父親の姉妹)の金具礼(キム・クレ)、金淳愛(キム・スネ)、金弼礼(キム・ピルレ)とは独立運動をともにした同志的な関係であり、普通の親族以上に濃密であったはずだ。
金焰についてまとめた鈴木常勝の『大路 朝鮮人の上海電影皇帝』(1994年)によると「朝鮮戦争以来、中国と韓国は敵対国となり、文通をすればスパイの疑いがかけられるという時期が続いていた。だから互いに有名人でありながら、金弼礼の伝記では上海で活躍する金焔にふれず、金焔の伝記には金弼礼や金マリアが登場しなかったのかもしれない」(105頁)とある。実際、中国と韓国の国交が開かれたのは1992年8月であり、1972年9月の「日中国交正常化」から20年もの年月を要したのも、朝鮮半島の南北分断、反共を国是とした韓国政治と深く関わっている。日本の植民地支配のもとで、生活のために、あるいは独立運動のために故郷を離れ、中国に移住した朝鮮人は1945年の時点でおよそ400万人に上っており、その後100万人が朝鮮に帰国したとされる。しかし朝鮮半島の政治情勢はその後も南北分断、朝鮮戦争へと激動し、南北のみならず、中国や旧ソ連にすむ同胞と南の韓国に住む人々の往信、往来は不可能だった。韓国はロシア、中国と1990年以降に次々と国交を開いたとはいえ、南北はいまなお多くの離散家族の消息を掴めないでいる。
金焔は金マリアの従弟であっても、二人には18歳の年齢差があり、また金マリアが上海からアメリカに向かったのが1923年6月、金焔が上海に移るのが1927年なので、すれ違った二人が互いについて知る機会がなかったかもしれないが、身近にいた金弼礼と金焔のそれぞれの自伝に一言半句も記されていないところに、二人の置かれた難しい政治状況があり、なおも継続する植民地主義をみる。
1910年に生まれた金焔の本名は金徳麟(キム・トンニン)である。魯迅の『吶喊』に感銘を受け、迅と改名したかったが響きがよくないので焔にしたそうだ。焔の父親は、マリア姉妹が父亡き後にソウルで世話になった叔父の弼淳(ピルスン)である。弼淳はセブランス病院付属医学院卒業後にその医学院で医師をしながら、独立運動秘密結社の「新民会」に深く関わっていた。1911年9月に寺内正毅朝鮮総督の殺害計画でっち上げ事件(百五人事件)のために、「新民会」メンバーを含む抗日知識人700人余りが検挙され、拘束された。1912年に弼淳は日本の弾圧を逃れ、吉林省通化を経てモンゴル寄りのチチハルに定着する。そこで日本の領事館の監視を受けながらも、理想村の建設を計画し、同胞のための医療活動に従事したが、焔が8歳の時にコレラで急死する。焔の祖母、母、7人きょうだいの大家族はたちまち生活難に陥り、家族は生き延びるために別々に暮らすしかなかった。幼い焔は弟を伴い、上海に住む姑母・金淳愛のもとに預けられることになるが、金淳愛の夫・金奎植(キム・ギュシク)が天津の大学教員として招聘されたので、上海から天津の中学に転校する。姑母夫婦の反対にもかかわらず映画俳優への夢を諦められず、単身で上海に向かったのは17歳の時である。やがて孫瑜監督に見いだされ、1929年に主役デビューした後に数多くの映画に出演するが、1934年に撮影した抗日戦争下の友情を描いた『大路』で映画界での不動の地位を築く。
しかし1937年8月の第二次上海事変以降、日中全面戦争に突入し、日本軍占領下に入った上海での活動を断念した金焔は1938年秋に妻とともに香港に脱出する。金焔が日本帝国主義の脅迫に屈せず、「日中親善映画」出演を拒否したところに彼への信頼を寄せたと1947年に再婚した秦怡が述懐するように、家族史に培われた金焔の抗日精神は確固たるものがあった。1941年に日本軍に香港が占領されると、さらに香港を脱出するが、日本の降伏後は上海に戻り、1983年に病死するまで上海で波乱万丈な生涯を閉じる。
在野の日本人研究者、鈴木常勝(1947―2021)さんによる金焔研究、金路(金焔の妹、当時は北京在住)や秦怡、 その外ゆかりの人びとへの度重なるインタビューと関連する資料収集、朝鮮語の翻訳を手伝った妻の金洪仙(キム・ホンソン)さんとの協業のおかげで、私たちが金焔という稀有な映画人に出会えたことに改めて感謝したい。
宋連玉(そん よのく/朝鮮近現代史・ジェンダー史)
〈参考文献〉
鈴木常勝『大路 朝鮮人の上海電影皇帝』新泉社、1994
朴容玉『김마리아』홍성사、 2003
金滋東『永遠なる臨時政府の少年』明石書店、2020
出典:金滋東『永遠なる臨時政府の少年』94頁
出典:朴容玉『김마리아』口絵

*右の『長江日記 ある女性独立運動家の回想録』(鄭靖和著、姜信子訳、明石書店)は、大韓民国臨時政府とともに過ごした運動家・鄭靖和の回想録。飾らない言葉で内外の運動家たちの素顔、苦難の道を綴る。
*左の『永遠なる臨時政府の少年』(金滋東著、宋連玉訳、明石書店)は、鄭靖和の息子による自伝。大韓民国臨時政府で生まれ、解放後の南北分断、朝鮮戦争など激動の韓国現代史を家族の歴史とともに描いている。親子二代、文章に誠実な生き方がにじみ出ている。
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