【連載】朝鮮女性独立運動家から続く道
- 春奈 伊藤
- 4月17日
- 読了時間: 7分
2024年9月に刊行した『帝国主義と闘った14人の朝鮮フェミニストー独立運動を描きなおす』(絵:尹錫男、著:金伊京)は、さまざまな立場から日本の植民地支配に抵抗し、運動内や「家」のなかでも闘った14人の女性を描いたノンフィクション。
三.一独立運動では、女子学生とともに妓生(キーセン)も重要な担い手でした。じつは本書の感想でももっとも反響があったのも、妓生から社会主義運動家に転身した「思想妓生」こと丁七星(チョン・チルソン)。
そこで今回は、朝鮮書芸史を研究する金貴粉さんに、書画家として活動した妓生たちを軸に、植民地支配下のあゆみなどをたどっていただきました。
「まなざされる」存在から、自ら描き、世を見つめる存在へ。
ぜひ本書と合わせてお読みください。
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植民地期朝鮮における妓生書画家たち―自己実現と挫折のはざまで―
2019年春に韓国の国立中央博物館で開催された「近代書画―春の黎明の目覚め(근대서화 봄 새벽을 깨우다)展(2019年4月16日―6月2日開催)には、これまでほとんど公開されることのなかった妓生出身書画家による作品が展示された。
咸仁淑(ハム・インスク)【図1】、金凌海(キム・ヌンヘ)という2人はそれぞれ蘭をモチーフにした四君子書画を描いており、その技量と芸術性の高さから高い評価を得ている。それではいつ頃から妓生書画家が誕生したのだろうか。
残念ながら彼女らについての資料は乏しいが、当時開設された箕城書画美術会や書画研究会で学び、揮毫会や朝鮮美術展覧会で活躍したことが、わずかながら記録として残っている。国立中央博物館の学芸研究官であるイ・スギョンは、1910年代を前後して画壇に登場し、大衆の注目を集めた妓生画家は女性書画家の始まりだと指摘する。「妓生画家」として大衆化され、消費されていく眼差しに留意しながらも、男性画家が中心の朝鮮書画界において、女性の登場は特筆すべきことであろう。

【図1】咸仁淑「墨蘭図」129×35㎝ 1900年代初頭 個人所蔵
(写真出典『근대 서화 -봄 새벽을 깨우다-』展図録、国立中央博物館、2019年)
これまで「妓生」は、実態に基づかないセクシャルな一部の記事をとりあげ、曲説されてきたことにより、専門女性芸術人とは異なるイメージが付与されてきた。
そもそも妓生とは朝鮮時代において掌楽院(宮中で儀礼や外交、教育などを司った禮曹に属す宮廷音楽の部署)で技芸を学んだ生徒の意であり、宮中、中央および地方官庁に所属していたため官妓とも呼ばれていた。その後、官妓が廃止となり、新たに1908年、統監府の管理下で「妓生団束令」「娼妓団束令」が制定され、売春を専業とする娼妓と歌舞を専業とする妓生とが明確に区分されることとなった。「団束」とは「取締り」を意味する。植民地化後は総督府の「取締り」のもとで、その活動を展開することになったのである。
それではその活動はいかなるものであったのだろうか。植民地化後においても、妓生は、歌・舞・奏だけではなく、詩・書・画にも長けた存在である伝統文化継承の担い手として活動を展開させた。官妓制度の廃止後は、その妓生たちは組合を結成し、「芸能集団」として大衆化させることにも貢献したのである。
伝統芸能教育は組合である「券番」が担った。券番は妓生を目指す女子に教育をし、一定期間学習を終えた妓生を明月館等の料亭につなげる役割を果たした。宴席での揮毫会の様子は、当時の新聞記事や絵葉書からもうかがうことができる【図2】。徐々に妓生は大衆的な存在となり、1920年代は化粧品広告モデル、劇場公演、ラジオ放送に出演し、芸能スターとして成功した者も増えた。新聞記事の広告だけではなく、絵葉書としても流通するようになる。

【図2】「妓生の揮毫(於明月館楼上)」
(出典『高麗美術館特別企画展「写真絵はがき」の中の朝鮮民俗』高麗美術館、2010年)
メディアへの露出が増えたこともあり、妓生の活動は朝鮮時代とは異なる様相をとるものとなっていった。書画家として活動を始めた妓生たちもまた、新聞記事に取り上げられるようになり、作品だけではなく、その容姿とともに紙面を飾るようになったのである。
1913年5月25日付の『毎日申報』には、妓生書画家の朱山月(チュ・サンウォル)による作品「蘆雁図」が写真入りで掲載された。これは妓生書画家だけではなく、女性書画家としても初めて新聞に掲載されたものであった。
ただし、妓生書画家が注目されていき「評価」される過程においては、その評価基準と価値づける付与者に対する注意が必要であろう。
朝鮮時代まで妓生は「身分」であったが、近代になり妓生は「職業」として位置付けられるようになった。身分制度の廃止が「すべての男性が上位の階級に位置する」という誤った認識を広げ、結果的に男性のジェンダー権力が実質的に強化されていくことにもつながったのである。その中で妓生らは辛酸をなめるしかなかったのだろうか。1919年に起こった3・1独立運動には、多くの民衆の中に妓生の姿もあった。そこからは国権回復運動としてだけではなく、自らの権利を正当に求めようとしていた彼女らの思いが想像される。
書画家ではないが、丁七星(チョン・チルソン)もその一人であった。1897年に大邱で生まれた丁は、8歳で童妓(未成年の妓生)となり、詩調(シジョ)、伽倻琴(カヤグム)、歌唱などの才能を発揮していた。彼女は後に京城(現ソウル)に移り、大正券番に所属する妓生として活動していたが、やがて妓生としての生活を捨て、社会主義者としての道を歩むことになる。そうした彼女の選択は決して容易なことではなかったと思われるが、植民地支配下における国権回復によって社会のジェンダー的不平等についても認識することとなり、彼女を運動に駆り立てたのだと考えられる。「妓生」出身女性であり、植民地下におかれた立場において、丁は誰かに依存せざるをえない状況を可能な限り打破しようとした。それは彼女が女性の経済的独立を強調し、運動から離れた後も小さな裁縫店を開き、無料で裁縫を教えながら生計を立てたことからも言えるだろう。

『帝国主義と闘った14人の朝鮮フェミニスト 独立運動を描きなおす』より、丁七星。
芸を磨き、その芸をもって立身したいと願った妓生は少なくはなかっただろうが、実際は困難をともなった。書画に長けた妓生の名妓として唯一、妓生史『朝鮮解語花史』(李能和著・1927年)に紹介された呉貴淑(オ・ギスク)は、朝鮮美術展覧会 第3回(1924)「蘭」、第4回(1925)「春蘭」、「秋菊」、第5回(1926)「墨蘭」を出品し、入選したことで大衆的な人気を博した。さらに呉は、当代の著名な書画家である金応元や金圭鎮、金容鎮に師事し、その腕を磨く。1920年代後半、書画修練のために東京に留学し、田口米舫にも師事し、書画の世界で大成することも夢見たに違いない。しかし、帰国してからは漢文で聖書の句を書いた書作品が新聞記事に掲載されたのを最後にその後の活動は確認できなかった。
放送界や演劇、映画界に進出し、名声を得た妓生出身芸術家らと異なり、書画家は経済的に自立していくことは困難であった。妓生らによる書画活動は、1913年以降、常に新聞を賑わしてきたが、朝鮮美術展覧会の書部門廃止にともない、同部門で活躍してきた妓生書画家の活躍の場も失われることとなったのである。
さらに書・四君子よりも近代美術へ一般社会の関心がむけられていくことで、伝統的な書画を継承する妓生書画家へも関心が低くなり、徐々にマスコミなどへの露出も減少する。書画家としての活動を望んでも、「妓生の書画」として好奇な目による一時的な消費の対象となるにとどまり、書画家として経済的な自立は困難な状況であった。男性書画家とは異なり、妓生書画家として書画の修練を重ね、作品制作に邁進しても、純粋に作品に対する評価が下されなかったという彼女らの現実がここにあったのではないか。近年、再評価されている妓生書画家は、女性書画家の先駆的な存在として改めて朝鮮書画史の中に位置づけられる必要があるだろう。
咸仁淑、金凌海、朱山月、丁七星、呉貴淑らがどのように生き抜こうとしたのか。資料が乏しい中でも確かに彼女たちの存在、生き様がその端々に想像される。彼女たちは時代に翻弄されながらも自らを奮い立たせ、自己実現をはかろうとした。果たして彼女たちを縛り付けてきたもの、行く手を阻んだものは完全に消えたのだろうか。「妓生」に対するこれまでの描写のされ方も含め、今、改めて彼女たちの人生を考察する必要があるのではないだろうか。
(きむ・きぶん/朝鮮書芸史研究)
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