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武士王国・薩摩の女が「イエ」を内側から斬り刻む

更新日:2022年11月29日




各地の女性史・ジェンダー史から知る戦争を綴る連載です。土地に根づいてきた「国家」「中央」「家」への抵抗の精神は、ときに粘り強いフェミニズムを育ててきました。そこで女性たちが戦争とどうかかわり、何を考えてきたのかをたどります。


鹿児島といえば男尊女卑が根強い風土といわれます。その背景にあった独自の武家文化を、小説『女と刀』からひもといてみます。物語は、西南戦争の5年後に旧薩摩藩士の娘として生まれた権領司キヲという女性の一代記。著者・中村きい子の母親をモデルにしたキヲは、「武士の娘」として強烈な教育を叩きこまれ、わき出る疑問や怒りを言葉にし、行動にうつします。キヲの「風波を起こすことは怠らない」マインドがあらわにするのは、世間体、男のメンツ、イエの秩序といった、封建社会が継いできた日本的因習。それらが極まる戦時中にもキヲはひるまず、袈裟懸けに。

なぜそんなことが可能だったのか。カギは、キヲを支える「(明治)十年のいくさ」こと西南戦争へのゆがんだ誇りにありました。では、西南戦争基準で見て「わがのいくさではない」とキヲが斬り捨てた太平洋戦争とは、そもそも西南戦争とはなんだったのか?


(※本連載のタイトル「土着のフェミニズム」は柳原恵さんの『〈化外〉のフェミニズム』より拝借しています。)


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*武士が少なかったのに「サムライジャパン」とは


なにかにつけ「サムライジャパン」といって喜ぶ日本社会だが、じつは武士の人口は少なく、江戸後期で全国・各藩とも数パーセント(約5~7%)しかいなかった。そんななかで飛びぬけて武士が多い国があった。薩摩藩である。同時期でおよそ38%(※1)、明治初期でも20%を超える武士がのし歩く武士大国であった。武士の多さは独自の文化を形作り、『女と刀』が描くように、「封建制度」は敗戦後にようやく崩れていく。

1877年の西南戦争は、明治政府から下野して「征韓論」を唱えた西郷隆盛を大将とし、旧薩摩軍が官軍と戦って負けたいくさである。権領司キヲは、西南戦争を戦った父から鬱屈した誇りを叩きこまれて育った。キヲという名も、父が「一国の主(あるじ)となるような豪胆な精神を持つように」、「紀旺(きお)」と名づけた。

キヲは父の願った通り鋼の女に成長するが、意に染まぬ結婚を命じられてからは、自らの「意向(思想・意志)」を貫こうと反身のようなアイデンティティを錬成していく。

キヲのこうした生き方は、単に「性格」にもとづくものではなく、「家」のなりたちが影響していたと思う。権領司家は郷士(下級武士)の家ながら「名頭(みょうず)」という役を務めたことで、上級武士にも一目置かれる存在。これが権領司家の誇りを支えていたのだ。なお、薩摩藩では上級武士が城下に住み(城下士族)、ほかは数が多いこともあり農村で土着の郷士となった。なぜ城下士族が「名頭」に頭が上がらなかったかというと、年貢の実権を握っていたからで、じつはこれが西南戦争にも大きくかかわってくる。だからこそ、キヲの父はねじくれた誇りにとらわれていたのだろう。

武家の女性というと、厳格さとともに、「女大学」的な人を思い浮かべる。「わきまえて」おり、少なくとも家長に意見するなどとんでもないというイメージだ。とくに、家制度が確立し、女性が法的に無能力者とされた近代以後の女性ならなおさらそうだったのでは?と思える。ところがキヲは武家ルーツアイデンティティを背骨として、武家社会(男社会/家父長制)の「丸く収める」「出戻り」「キズ者」「世間体」「家(長)のメンツ」といった言葉の本質を執拗に問い、返す刀でそれらを切り刻んで解体し、親戚すべてを敵に回しても自らの意向を固めていく。それぞれの具体的な描写が『女と刀』の見せ場となっている。


※1 文政9(1826)年のデータによる。鹿児島三か国の総人口651,202人のうち、武士及び準士身分階層者の人口は242,896人(37.3%)にのぼった(出典は鹿児島大学附属図書館所蔵・玉里文庫『薩藩政要録』)。




*吉田松陰も坂本龍馬も狙っていた朝鮮


最後の士族の反乱ともいわれる西南戦争には、「征韓論」など複合的な要因があった。そのひとつが、権領司家の名頭のような「武士の特権」である。薩摩藩には「門割(かどわり)」と呼ばれる土地制度によって、武士が直接、徴税権を握っていた。農民を「門」という単位ごとに組織して耕作地を交付し、年貢を納めさせるというものだ。つまり、土地所有権は藩に、耕作権は門にあり、農民は他藩のように土地を所有できない仕組みになっていた。廃藩置県によって藩がなくなると、武士はこの特権を失ったので混乱する。そこへ士族としての復古願望と攘夷的侵略願望が加わって、薩摩氏族のある種の後進性があらわになった――それが、西南戦争の横顔ともいえる。

西郷が挙兵したとの知らせを受けた明治政府の木戸孝允は、岩倉具視あての書簡に、「御一新があまりに廉価にできてしまったため、再び買い戻すのに苦労する」といったことを書いている。官軍は維新の未払いのツケを払わされているようなものだというのだ。内戦を起して王政復古をなしとげた明治政府は、彼らを切り捨てない限り開化は実現できない。その意味では、西南戦争とは戊辰戦争の延長戦ともいえるのだが、当の薩摩氏族らにとっては、「これまで通り」を死守するための誇り高い戦いという思いが、キヲの時代まで語り継がれたのだから始末が悪い。


ちなみに征韓論とはこの折に持ち上がったのではなく、幕末期、国学・水戸学を信奉した攘夷志士らが隣国に対する優越感を募らせて巻き起こしたものだ。「神功皇后の三韓征伐」が彼らの間に広まっていたのもその好例。吉田松陰が『獄是帳』などで朝鮮への進出をさかんに説いたことは、明治政府を構成した長州藩士を中心に支持されていたし、あの坂本龍馬も蝦夷地や竹島(現在の鬱陵島。当時は渡航禁止地)での交易や領地開拓の野心を書簡に残している。








*武家女性ゆえの差別意識


『女と刀』には、初女というキヲとよく似た女が出てくる。初も郷士出身だが、維新後は天龍金という無頼の男と一緒になり、その男が死ぬとひとり気ままに暮らす。百姓の娘らに縫物を教えたりして生計を立て、「独立(ひとりだち)」する姿はやがてキヲのロールモデルとなっていく。

「身分違いの恋」を果たした初とは違い、キヲは郷士の誇りが過ぎて百姓に対する差別意識がぬぐえない。ふたりの差は、初がキヲを見据えて言うこんなセリフにもあらわれている。


――わたしの言いたい血の精粋とはのう、それは血を憎悪(にくしみ)ぬくということじゃよ(p106)。


郷士は同じ身分のなかで結婚することを強いられて「血固め」をしてきたが、その中でのみ寄りかかって生きてきた、つまり甘えているのだと初は説く。郷士は、百姓の涙の上にあぐらをかいてきたのだとも。

キヲはキヲで、「やりもそ、真剣勝負をッ」などと夫・平右衛門に向かっていくが、平右衛門はのらりくらりと避けるのみ。その姿勢こそ「寄りかかって生きてきた甘さ」だとキヲは考え、平右衛門と対話(ことば)を交わすことを求め続けるもむなしく、やがてそれは自らに向かう。


――わたしという女は、子しか産むことのできぬ女なのか。

――女が女であるというしるしは、子どもを産むということのみにあるのか。

――ならば、わたしはかたちのうえだけの女の現し身であり、女のしがらみにすぎぬ。


問いを経て、キヲはまたひとつの意向を得る。それは、子どもしか産めぬ女として終わらないよう、絶えず自分を激しく揺さぶるものが欲しいということだった。そのひとつが、タイトルにもある「刀」。キヲが父から強要して譲り受けたひとふりの刀は、本来「イエ」のしるしであり、家長のためのものだ。刀とは「権威」であり、家長の座席である「横座」にあぐらをかいているだけの夫のようなもの。だが、「横座」の本質を見抜いて笑うキヲは、意向を通すための相手として、刀に愛着をしめしていく。そうして、床の間に飾るなどということはせず、夜は枕元に刀を置いて平右衛門をぎょっとさせ、産室に置いては陣痛の間しっかと握りしめ、赤子を産み落とすなどするのだった(驚愕)。




*「男の天下」で生きながら


時代は進み、満州事変、盧溝橋事件と侵略戦争が進むたび、権領司家ではなお西南戦争を軸に軍政権を批判するというねじれようだった。太平洋戦争にいたっては、「西郷殿の征韓論をききいれる度量をもたなかった、あのおりの『日本』の不始末が」原因とみる有様。『女と刀』が書かれたのは戦後だから、著者の中村きい子も(そして当時の読者大方も)征韓論への批判的な視点がなかったことがうかがえる。このことはかなり重要だ。


キヲの理屈は、戦時体制に順応するわが子たちとの断絶をうみ、娘の工場動員をはばもうと刀を突きつけたりもする。一方で、嫁のタツヨが修養団なるものに入っていると聞いて、はなから否定する言葉は鋭い。――「おのれの意向を曲げるとか、欲望のことごとくを押さえ、あるいは『犠牲』という美名のもとに、おのれを無にして生きるということなどとうてい承服できぬ」(p246)。体制を見つめぬいてその中に家制度の構造を確認すると、ひるまず疑問をぶつける。その姿勢は、キヲがつねに「個」として意向を通してきたからこそなのだ。キヲにとって、「イエ」の秩序だとか、おさまりのよさに安住するといったことは選択肢にはない。その意味で、西南戦争と武家を重んじる土壌が、体制(中央)を嫌い、(幸い?)同質批判に転じたともいえる。

やがて敗戦を迎え、「これからの日本」をキヲが娘と対話する場面は、明治時代とはなんだったのか、戦後にあらわれた民主主義とはなんであったのかを、いままたつきつけてくるようだ。

「家制度」がなくなり、新憲法によって個人が尊重されるようになった社会で、武家の娘でありながら世襲がもたらす文化を非難してきたキヲはようやく「ザイ(百姓)」の人々とも向き合い、おのれの差別意識を捨てる。


――ひとふりの刀の重さほども値しない男よ。


70歳になったキヲは夫にこう告げ、家を出る。それまでに失ったものを取り戻すには、ひたすら独立(ひとりだち)を楽しむこと。その孤独のために、これまで通り、


日本の体制というくせものに、たえず向ける刃であらねばならぬ。(p384)


と誓うのだった。

独立(ひとりだち)したキヲは、農家のお婆さんたちと対話(ことば)を交わしながら、「識(し)る」ことこそが人のしあわせだとかみしめる。これこそが、ひたすら対話を求め、父や夫に裏切られながら意向を貫いたキヲという女性が練り上げた思想だった。




西南戦争には庶民がつくった風刺歌が残るが、その点では会津も似ていると思った。同じく負けいくさだった会津戦争のその後もまた、敗残者らが鬱屈とともに語り伝えて文化風土とし、「武士のこころ(=理不尽)」が観光の「売り」になっていたりする。

明治維新をどうとらえるかは、その後の戦争観を左右する。『女と刀』は明治百年(1966年)の折に出版されて話題を呼んだというが、明治150年の2018年、当時の安倍政権が主導して「女性も全国で躍動した」などと謳っていた(100年のときほど盛り上がらなかったらしいが)。今も「明治の日」を制定しようとの動きがあるが、女性などマイノリティにとって明治とは暗い時代でもあり(※2)、江戸以来の「男女の別」が強化アップデートされ、制度上ではきっちり力をそがれた時代だったことは忘れたくない。


※2 『女と刀』初版と同じ1966年に出版された島本久恵『明治の女性たち』は「明治は暗い時代であった」とし、その暗さを「夜が明けてからの昏(くら)さ」と見抜いている。また山川菊栄は『おんな二代の記』(1956年)で「明治はいい時代だった、すばらしかったとかいう人もありますが、この本をごらんくださる方には、人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえない」とあとがきで記している。同書は、幕末の政治動乱の口火を切った水戸藩の母娘二代を描く自叙伝。さまざまなマイノリティにとっての近代化は、まだまだ見つめ直すべきことがたくさんあるはずだ。



●おまけ●

【関連書として、同時代の薩摩の武家女を実在した人物をモデルに描いた『薩摩の女―兵児大将の祖母の記』(大迫亘著、大和書房、1980年)を読んでみた。一見、「強い」女が描かれていたが、なんのことはない、薩摩の男によって理想化された強さだった。やはり「誰が書くか」が大事なのだと再確認しました(武家ルーツの人々が戦後まで、源氏、平氏どちらかの流れであるか名乗っていたことなど興味深い風習を知ることはできたが)。


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