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鬼の話





各地の女性史・ジェンダー史からその土地のフェミニズム、戦争を考える連載です。土地に根づいてきた「国家」「中央」「家」への抵抗の精神は、粘り強いフェミニズムをはぐくんできました。そこで女性らマイノリティが戦争とどうかかわり、どんな思想が伝わってきたのかをたどります。


3回目は、福井県福井市の光寿寺で住職を務める野世阿弥さんです。野世さんは、ジェンダー、フェミニズムの視点で安全な場づくりや差別について考える「ナモナモ寺」(後述)という活動も展開。ここでは、福井に縁深い浄土真宗をテーマに、女人往生と戦争協力の歴史を綴っていただきました。

日本の文化や性規範に確実に根づいているのに、さほど語られてこなかった仏教の性差別は、この社会の差別構造をそのまま見るよう。いまこそ多くの人に読み、考えてもらいたい問題です。

(※本連載のタイトル「土着のフェミニズム」は柳原恵さんの『〈化外〉のフェミニズム』より拝借しています。)


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夏の法衣を着る。シースルーで見た目は涼やかだが、ポリエステル製の布地は汗ばんだ肌にぴったりとはりついて、体温をどこへも逃がさない。門徒さんのお宅へ行き、月命日のお経をあげ、そのあとは暑いね暑いねと言い合って、なんとなくお互いの近況を把握したような気になる。寺の仕事は「ジヤク(寺役)」と言われる。暑いですねと言い合うことも、私のジヤクのひとつである。

この仕事をするようになって12年ほど、毎日誰かと世間話をし続けている。なのに全く上手にならないのはなぜだろう。いまだに夏の話題は「暑い」ばかりで手持ちのカードが増えていかない。不用意なひとことで相手をムッとさせたのではないかという不安もなくならない。相手が何も言ってこないことをわざわざ質問して引き出すのは、自分がされたらいやだから、できない。よく「自分の話ばかりする人は嫌われる」と言うけれど、私にとっては、自分の話したいことを話す人のほうが余計な心配をしなくてよく、安心だったりする。


ある熱心な門徒さんがいた。玄関の一番よく見えるところに「腹立たば 鏡を出して顔を見よ 鬼の顔がただで見られる」と書かれた紙が貼ってあった。夏になると団扇を私に向けてゆっくり動かしながら、いつも同じ昔話をしてくれた。主に、夫を亡くした話と、終戦間際に出産し苦労した話で、最後に必ず「食べるもんは大根飯でもいいですから。戦争だけはしたらあかん。お願いしますね」と言い、持っていた団扇を置いて、私に向かい、しわしわの手を合わせた。そのたびに、どうしていいかわからなくなる。今日もまた無責任に耳をかたむけてしまったという気まずさに、ますます汗が出るのだった。その人は101歳で亡くなり、家ももうない。


浄土真宗の中興の祖と呼ばれる蓮如が、北陸布教の拠点としたのが福井県の吉崎御坊(よしざきごぼう)である。そこには「嫁脅(よめおど)しの面」という女人救済譚がある。蓮如のもとで熱心に仏法を聞く嫁の吉﨑参詣を、鬼の面をかぶって脅かし妨害しようとする姑。その鬼の面が姑の顔に貼りついて取れなくなり、蓮如の教えを聞いて懺悔したところ、鬼の面が取れたという話である。吉崎には、そのときの面が「肉付きの面」として伝わり、真宗門徒や、吉崎を訪れた多くの人が知る伝説となっている。

仏教がひろまるにつれて、女は救われがたい存在とされた。浄土真宗は女人往生を説いているが、時代とともにその内実は、いかに女があさましく罪深く、諸仏から見放されてきたかという「自覚」を徹底させ、内面化させるものとなっていった。嫉妬や妬みの心が強く、疑い深く、罪深さは男にも勝る存在「だからこそ」救われるとしたのである。どうしようもない女という存在を、阿弥陀仏だけが助けてくださるのだと、ひたすらに落としてから上げる論法である。こうした女人救済が積極的に説かれるようになった背景には、力の衰えた真宗教団の再興のために「女人」を取り込む必要性があったとも言われる。現代の、「女性活躍」「女性ならでは」という言葉が重なってくる。

女でも救われる。はたしてこれは救いなのか。既存の権力構造を維持もしくは強化するための材料として、包摂したように装いながら、どこまでもわきまえるべき存在としてしか見做(みな)さないのであれば、それは救いではなく、よりわかりにくくなった排除といえるだろう。ありのままを認められることは決してない。





▲嫁に襲いかかる姑。

▲蓮如の教えを聞いて懺悔したらお面が取れた。一件落着…???


▲これが「嫁おどし肉附き面」として伝わる「嫁脅しの面」。

▲写真はすべて「K映像 ふくい足もと遺産『嫁おどし肉附面』」(FBC福井放送公式チャンネル)より。ページ下部に動画を掲載しています。




性差別が温存されたまま、教団は戦争に積極的に加担していった。多くの命を「死ねば浄土」と戦地へ送り出し、国に残った者へは「銃後」の心構えを説いた。仏法は心の中のものとし、社会秩序は無批判に肯定するというダブルスタンダードによって、性差別も戦争も問題にすることができなかったのである。その中でどれだけの存在が無いものとされてきたのだろう。

「鬼の自覚」を救いのよりどころにし、戦争だけはしないでと手を合わせたあの人にわたしが抱いた気まずさは、教団のひとりとして歴史を背負っている後ろめたさと、「鬼」と名指してくるものへの怒りの入り混じったものだ。ともに消えてなくなることはない。

浄土真宗は、人間が自らの愚かさや煩悩を知らされながら、互いの尊厳に目覚めて生きていこうとする、一切平等の教えである。それならば、不平等な現実に対して問いを与えるはずだ。なぜマイノリティの属性にある人は、そうでない人よりも常に自分の「鬼の顔」を意識させられ続けなければならないのだろうか。なぜ、生きようとするだけで「行き過ぎた主張」「わきまえろ」と言われてしまうのだろうか。人が人を殺してよしとする戦争は、こうした不均衡な力関係を当たり前にした先にあるのではないか。寺は、教えによって生まれる問いを共有する場でありたい。

上手にならない世間話を薄く積み重ねながら、その中に静かに混ざっている「自分の話」に耳をかたむけて、わたしはジヤクする。歴史の延長線の上に、責任あるわたしたちとして、立ち続けるために。



◆もっと読みたい方へ◆

『エトセトラ』VOL.9 NO MORE 女人禁制!(エトセトラブックス刊/花束書房・編)

フェミマガジン『エトセトラ』に、野世阿弥さんのインタビュー「寺という場所から仏教やフェミニズムをちょっとずつ開く」(24頁~)が掲載されています。強固な男性社会である仏教界の女性差別や家父長制、「伝統」に拠りかからず親鸞の思想に向き合うことなど、じっくりと語っていただきました。

また、「小さな声の読書会」「クイア映画部」「他人が爪をぬっているのを見る会」など、差別やケアについて考える活動「ナモナモ寺」に関するお話も。従来の世襲・家族経営という「常識」を批判しながら、寺を安全で居心地のいい場としてひらいていくためのお話はとても豊かで、光明を感じさせます。ぜひ、あわせて読んでみてください!









▲「ふくい足もと遺産『嫁おどし肉附面』」FBC福井放送公式チャンネル

嫁脅しの話について紹介されています。

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